alzmaのブログ

アルツハイマー型認知症になった母との暮らし

薬の事

2019.4.5。二カ月ぶりの診察だった。

今回は母抜きで、精神科の先生と私だけで話す時間をもらった。

この二カ月の間で、認知症が重症化したように思う事を伝えた。

異食があった事、娘を認識できない時がある事。

そしてもしかしたら薬の影響があるのではないかと不安に思っている事。

いつもなら「変わりないですか~?そうですか、それは良かった。またいつものお薬出しますね~」という先生だが、

顔がぴくっと動き、高齢者には効きすぎてしまうかもしれない薬をやめてみましょうと言われた。それからアルツハイマーの進行を抑えると言われている薬も、もう77歳ですからやめましょう、と言われた。

それで2種類の薬をやめてみて2週間ほどになるが、母はとても元気だ。

血色がいい。そしてよくしゃべる。そして活動的だ。

2年前くらいの状態ではないかと私は思っている。

朝は早起きし、母なりに出かける準備をし、「まで出かけませんかー?」「朝礼に間に合わないよー」としつこく声をかけてくる。

夕食後、私が入浴している間、20時までは何とか寝かすまいと、話し相手をしてくれる家族と、楽しそうに笑う母の声が浴室まで聞こえてきて、あーうれしいな~と思った。

 

白内障

白内障の手術を初めて予約したのは平成26年だったと思う。片目づつ2回。入院の必要はないが前後に通院する必要があるということで、母には、娘である私の家にしばらく泊まってもらい、付き添うからねと話した。日にちも決めた。

母は不安だったんだと思うし、色々な気持ちがあったんだと思う。私ではなく他の家族が、それをキャンセルする電話をしていた。たまたま居合わせてしまった。

その後、その人が、他の眼科に連れて行って目薬をもらってきたようだった。母を近いところで毎日見ていたから、それとなくわかった。

平成28年に眼鏡を作りに行ったが、メガネ屋さんからも白内障を心配されたので、その足で以前手術を予約した眼科へ行った。

その時は手術の話は出ず、目薬の処方のみであった。

その後、失くしたり、傷めたりして、二回ほど眼鏡を作ったが、レンズの度数は前回と同じで、と頼んだ。

今、視力は0.8と0.2。77歳。年齢からしたら手術すべき。でも認知症が進んだ今、手術の事、入院の事、術後の管理の事、非常に難しい。

本人の気持ちを最優先したいところだが、それすら確認できない現状である。

早朝の事

私が子供時代から母は早起きだから、母に睡眠時間があるのだろうか?と当時不思議に思った。

私の子育て中は、私の家の隣に、母の家庭菜園があって、私が起きたころには一仕事終えた母がいたものだ。

認知症が進み更に早起きだ。というより薬を飲むことで5時間寝るのが精一杯。春になり夜明けの早い今、目覚めてからはじっとしていられない。

朝6時前に私を起こしに来た。母が歩いたところに枯葉や土がついている。テーブルに少しだが茶色い何か、よく見ると血が付いていた。

母の左手の甲に血が付いていて、上着もカーディガンも肌着も袖口が濡れて、背中には枯葉や草が付き、ひざ下はぐっしょり濡れていた。鼻の頭には泥が付いていた。

どこに行ってきたの?そんな愚問をついしてしまう。もちろんどこにもいっていないと答えるし、覚えていないことは知っている。

全部着替えた。その時気になったのは手の傷だけだったけど「腰が痛い。もう80や90や100にもなるんだから、痛くても仕方ない。いたたたたいたたたた。あー腰が痛い」と痛そうだった。多分年齢は多めに言っている。ちょっと面白い。

湿布を貼ろうとしたら、「つめたっつめたっ。もー。温めてからにしてよ。やーだにそんなの」不機嫌極まりない。

その日はデイサービスで入浴の日だったからよかった。看護師さんも観察してくれた。

その翌日は首が少し痛いようだった。それより膝の黒ずみが痛々しかった。

本人は手の甲のかさぶたを擦りながら、これは何かなあ?取れないなあと、気になるようだった。

その程度の事で良かった。

鍵をかけ忘れた家族は、本人よりシュンと落ち込んでしまった。

 

季節感

雨の降る日は、「いよいよ梅雨ね」という。

雪が降れば、「今年は雪が多いこと」という。晴れの日は、たいてい「今は春」と答える。

正直に言うと季節はわからないんだって。


携帯電話

私の家に来た頃はまだ携帯電話を持っていた。

毎日、朝に夕に、母の携帯電話探しをした。ストラップを付けてみてもダメ。「ちょっと私の携帯、鳴らしてみて」としょっちゅう言われた。

母は電話を掛けるのが好きだった。でも今、掛けた事を忘れるから、同じ人に連続10回掛けてしまうことも。しかも同じ内容。身内だけじゃなく、友人にも掛けまくっていた。

携帯電話を私に隠されている、と疑った時期があった。私がお風呂に入るのを見計らって、台所の収納を探す。扉をパタンパタンパタンと鳴らして探していた。

朝の3時頃、布団の中から私に電話をしてきて、ここがどこなのかわからないと言ったことがあった。携帯電話がそばにある事で母は安心し、より所になっていたのかもしれない。

後にも先にも一度だけ、私のパートナーが、母が身内に電話している内容を聞いて、その電話の最中に怒鳴ったことがある。入浴していた私は風呂から飛び出た。多分、仕方なくここにいるという内容じゃないかと推測する。娘たちにいじめられているとか言って、よそで泣いた事を聞いていたから、我慢できなかったのではないかと思う。

母は「私はここの悪口を言ったことは一度もない」と言って泣いた。

電話の相手が私に電話をかけてきて、「いじめられているんじゃないかと心配だから迎えに行く」と言うので、それならと、母に代わった。すると「私はここがいいから迎えに来ないで」と答えていた。

その後パートナーは二度と怒らない。

そうこうして「ついに携帯が見つからないね」という事にしてみたら「もう年だし、ないなら仕方ないし」ということになった。携帯電話に振り回されない日々は平和だ。

時間がわからないと困ると思い、替わりに腕時計をプレゼントしてみたが、それこそ、立て続けに2つ無くし、当然安物ではあるし、予想はしていたが、あっさり無くされて、私はがっかりだった。

着替え

朝の着替えは重要だから手伝う。

まずは脱いでもらう。

上はすんなり脱いでくれる。脱いだら、肌シャツ、薄手のシャツ、厚手の服、羽織り物、といった順番で、裏返しにならないよう、前後が逆にならないよう袖を通す。

下は汚れている時ほど、すんなり脱がない。一人でできるとか、いくら娘でもとか言ってプリプリするが、出かけるんだから早く替えよう!と促す。ズボン、パンツ、ズボン、パンツ、パンツ、ズボン下、パンツ。くらい履いているから笑えるが、本人の前では決して笑えない。一枚づつ脱いでいくと、トイレットペーパーを折りたたんだ物がポロポロ落ちる。それに、ポケットというポケットからもペーパーが出てくる。

全部脱いで、紙パンツ、ズボン下、ズボンの順番で前後が逆にならないように裏返しにならないように、足を通すとこまでを手伝う。靴下は、一人で履けるが、たまたま二足、三足そこにあると全部履いてしまうし、二枚とも同じ方の足に履いて、もう一枚が無い、ということになる。その辺はまあどうでもいいやと私は思う。

さっきまで着ていた物なのか、これから着るものなのか、誰の服なのか、どの順番で着るのか、わからないようだ。ズボンの上に肌シャツを、袖に足を入れて履いていてそのまま小さい歩幅で歩いていた時も笑えた。

自力で着替えると、ほとんどの物をわざわざ裏返して、しかも前後逆に着るから不思議。裏返してからボタンを留めるのは器用だなと思う。玄関の靴の揃え方も不思議。2人分あると、私の左、母の右、私の右、母の左という風に並んでいる。しかも片方つま先が上ならもう片方は踵が上という風。

出かける時の帽子と上着は、タグが外に立っているけど、これが毎日。わたし的にはデイサービスに行ったら脱ぐんだからまあいいや、といった感じ。

ただ時々「私が変な格好して、笑われるのは娘のあなただよ」と母がプレッシャーをかけてくる。

仕事

中学を出た後、集団就職豊橋の工場に行ったそうで、働きながら高等教育が受けられ、寮生活も楽しかったと、当時の話をしてくれた。

その後、長女ということもあり、実家へ戻り、有線電話の交換手をしている時、父と結ばれたそうだ。

結婚後も仕事は続け、計画的に四年後に私を出産し、その三年後に私の妹を出産した。

その三年後には地元の工場で働き始める。

働きながら調理師の資格を取得した。夢は食堂を開く事と言っていた。

15年後、晴れて飲食業に転職する。

さあ生き生きとしていた。

自宅の電話にでるにも「はい、〇〇(店名)です」と言うので、父があきれていた。イベントや宴会があれば、早朝に出かけ料理をしホールにも出た。帰りは深夜になることもあった。そして名刺には肩書きが付いていた。

アルツハイマー認知症になっても、職場に通った。制服に三角布、エプロン。同僚は誰も、病気に気づかなかった。

一度退職しパートとして再雇用された後、仕事への執着を感じた。働きたいのだ。メイクをして、眉毛を筆ペンで書いて、それが汗で垂れてしまっても、おしっこが漏れてしまっていても、途中で転んで縫合が必要なほど出血しても、朝、入れ歯が割れる緊急事態でも、とにかく休まない。働きたいのだ。

75才まで通った。我が家に連れてきてからも通った。3時間のパートの為に往復1時間かかったが、母にとっては何て事無いあたりまえの事だった。

時々「おかげさまで今でも働いてるの」と言う母は自慢げだ。